COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

GUI脳

先週一週間は夏期休暇を取得していたため、今朝は9日ぶりに職場へ出勤。
誰しもそうだとは思いますが、月曜日の朝はただでさえ身も心も重いのに、今朝はその何十倍もの負荷がかかっているように感じました。
やっとの思いで自分のデスクにたどり着き、3台並んで置いてあるPCを立ち上げると、そのうちの一台が立ち上がらなくなっていることに気づきました。
どうも私の休暇中に隣席の同僚がそのPCを触っていたらしいのですが、急に画面がブラックアウトして、その後、WINDOWSが立ち上がらなくなってしまったそうです。
数人がかりで何時間もかけて復旧を試みたそうなのですが、無駄な努力に終わったらしく、今に至るとのこと・・
このPCにはいくつか私にとって重要なファイルが入っていたため、それだけでもフロッピーへ吸い出すことができればかなり救われるのですが・・
さてどうしたものかと思い、別のPCで起動ディスクを作ってそこから立ち上げればよいことに気づきました。
久しぶりにDOSコマンドの出番です!懐かしいなぁと思いながらも、すっかりコマンド忘れてましたねぇ。
まず、目的のファイルが入っているディレクトリまで降りていくことがなかなかできずに悩んでしまいました。まぁそこは、適当に打っているうちに、なんとか目的のディレクトリまでたどり着くことができたのですが、更なる問題が待ち構えていました。
救い出したいファイルが日本語でネーミングされている為、DOSのコマンドラインから打ち込むことができなかったのです。これにはものすごく歯がゆい思いをしました。
月曜日の朝っぱらから必死こいてPCと格闘している私を見ていた同僚が、「ワイルドカード使えば?」というヒントを提供してくれたおかげで、なんとかフロッピーへコピーすることに成功したのですが、今の我々はひょっとするとGUI環境のおかげで脳の働きが相当ニブくなってしまっているのではないかと思いました。

確かにGUI環境では、目の前にあるオブジェクトを直感的に操作することができますし、その点ではCUIよりも圧倒的に優れているのですが、もし何らかの原因でそのオブジェクトに手を触れることもできなくなってしまった場合に、ほんのちょっと手段を工夫してみるといったようなことができなくなってしまっているのではないでしょうか。
その昔、GUICUIのどちらがインターフェースとして優れているかということが議論されていた時期がありましたが、どちらが優れているかということを議論する以前に、人間の思考能力にとって有益なものかどうかをまず評価する必要があったのではないかと思います。