COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

あなただけ見えない

Twitterは、もう4年くらいやっているんですけど、いまだにフォローしている人の中に、素性のわからない人が混じっています。
そういう人たちのツイートを眺めながら、「あぁ、この人、昼飯にカレー食べはったんかー」とか思いながら、ふと、私はなんでこんなことやっているのだろうかと思ったりするのです。
4年以上も、その人の行動や言葉を連日目にしてきながら、その人のことを、何にもわかっていない自分に気づいてしまうのです。



ちょっと話は変わるのですが、これは私が若い頃に、合コンの席で隣り合った女子と話をしていた時のことです。


女子「こういう場で、隣り合った男性と何時間話をしていても、その人の背景にあるものが見えないんですよね。」
私「いやいや、それっておかしいんじゃないの?あなたにとって、今、目の前にいる俺が全てじゃないの?そこからしか、お互いのことって分かり合えないんじゃないの?」


もう10年以上前のことなのでよく覚えていないのですが、なんかそんな感じの会話だったと思います。
この時の女子の言葉に出てきた「背景」って、その人のバックボーンになっているもの、つまり自分の中の主義主張だったりとか、そういうものを指しているんでしょうけど、そういうものって、普段一緒に行動を共にしていく中でしか発見・理解できないものなんじゃないかなーとその時は思いました。
だから、こんな合コンのような、一時的に面識のない男女が集まって食事したりカラオケしたりするという場面では、なかなか人間の内部の深い部分と対峙することが難しいような気がしたんですよね。おそらく件の女子も、そういうことが言いたかったんじゃないでしょうか。



世の中には、TwitterとかFacebookとか、最近ではGoogle+とか、色んなソーシャル系サービスがありますが、それらのベースになっているのは基本的に「つぶやき」系なので、これだけでは、やっぱり他人の深い内面って、なかなかわかりにくいと思うんですよね。
もちろんリアルで知り合いだとか、そういう人たち同士でやる分には全く問題ないと思うのですが、そうではなくって、全く面識のない人たち同士が集まって、お互いのことを理解する為には、やはり「つぶやいている」だけではお互いのことをわかりあうことって難しいと思うのです。



先日、はてなのreikonさんがご自分のブログの中で、「つぶやき系のサービスって、気軽に使えるしレスポンスも速いし楽しいんだけど、自分の書いたものを後で読み返していく用途で使うのは、ブログの方が絶対にいい」とおっしゃっていて、なるほどなぁと思わせられました。未来の自分のために、今の自分の感じたことやそこから考えたことをログとして残していくことの重要性を、再認識させられたというか…



でも、それだけではなく、それ以外にもブログの用途はあるのではないかな?と最近感じていて、それは、未来の他人のために、今の自分の言葉を残していくということです。つまり、これから将来的に出会って、知り合っていこうとする人たちに対して、自分のバックボーンになっているものを理解してもらう為のツールとして、ブログをもっと活用するべきなんだと思うのです。
具体的には、どんなソーシャル系サービスにも、プロフィール欄があると思いますが、そこには、「最近、○○にハマってます」みたいな感じのありきたりの自己紹介ではなくて、まずは自分のブログへのリンクや、技術者なんだったら自分の成果物へのリンクなどを列挙しておくべきだと思うんです。そして普段からそこで、自分の内面にある「濃い」世界を展開しておくのです。
そうしておいた上で、「今日は昼飯にカレーを食べた」とか、表のソーシャル系サービスの場でつぶやき続けることには、やっぱり意味があると思うのです。「へぇ、これほど深いバックボーンを持った人が、今、昼飯にカレーを食べているのか」なんていう風に、とらえ方が180度変わっていくと思うんですよね。