COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

神様のフレームワーク

私は、というかプログラマにはそういう方が多いと思うのですが、毎日のルーティンワークを自動化していくのが大好きです。
もっというと、私が何も特別な作業や指示をしなくても、勝手に自律的に動いてくれるシステムを作るのが大好きです。
なので、私が何かWebサービスを作る時には、必ずメンテナンスフリーであることを心がけています。


私が昔作った「RetroTube」や「ギーク図書館」なんかは、定期的にネタ元のサイトからデータを収集してくる処理を動かす必要があったのですが、当時はこれを手動で週に一度くらいやっていました。こういうのって、サービス開始当初の内は問題ないのですが、時間が経つに連れて徐々に面倒くさくなってしまって、それに伴いサービス自体もストップすることになってしまいがちです。
その点、「Movitter」以降に作ったサービスでは、その辺りが完全に自動化されていて、ここ一年くらい全く私が手を触れていないにもかかわらず、きちんと動き続けています。これらのサービスは全て、ネット上に転がっているパーツを組み合わせて作ってあるので、ランニングコストも一切かかっていませんし、このまま私が放置していても半永久的に動き続けることでしょう。
このあたりの、自律的なシステムになるようにじっくりと命を吹き込んでいく過程が快感だというか、ちょっと大袈裟な言い方をすると、神になったような気分を味わうことができるところが、趣味で時間を割いてまでサービス開発を辞めることのできない理由でもあるのです。



ところで先日、「Made by Hand」というオライリー本を読んでいて、その中で「パーマネントアグリカルチャー」という言葉に出会いました。
日本語にすると「永続的な農業」という意味なのですが、これは、自然界にある成分を組み合わせて、それらの相互作用から自律的なシステムを作り出して、そこから収穫物を得ようとする考え方だそうです。
ハチやニワトリや菜園が全てお互いに意味のあるものとして作用しあって、骨の折れる作業は彼らの間だけで自動的に行われて、人間の作業は収穫するだけになるというやり方ですね。
この話を読んでいて、これって、普段私が作ろうとしているWebサービスと全く同じで、収穫できるものがネット上の有益な情報か、野菜やハチミツや卵などの違いだけだなぁと思ったのです。


ということは、きっとこの世界には、何らかの複数のパーツを上手に組み合わせることで、自律的に相互作用を半永久的に続けて、そこから何らかの有益なものを得られる可能性が満ちあふれているような気がしてきます。
というより、きっと今我々が存在しているこの世界自体が、様々なパーツの組み合わせでできていて、それらが外部から手を加えなくても自律的に動くようになったものなんじゃないかなと考えさせられてしまうのです。



そう考えていくと、きっとこの世界を「フレームワーク」としてデザインした存在が必ずいるような気がしてくるんですよね。
俗っぽい言い方をすれば、それは「神」と呼ばれるものなのかもしれないし、もっと違った別の何かなのかもしれません。とにかくこの世界の外側にいる存在ですね。スティーブン・キングの「IT」ですね。


で、そのフレームワークには設計思想がきちんとあって、それに従う限りは楽ができるということになっているのかもしれませんね。例えば、あまり私は宗教のことは詳しくないのですが、キリスト教だと「強欲は罪」だとか言ったりして、そのルールに従う必要があったりとか、つまり思想って、要するにフレームワーク設計思想のことなんですよね。
おそらく今現在、我々が日常生活を送っていて、何かうまくいかないなぁとか、生き難い・息苦しいなぁという感覚から逃れられないとしたら、もしかしたら、そういうところが原因になっているのかもしれませんね。



きっと、神様って、我々人間の願い事を叶えてくれる存在ではなく、ましてや困っている人々に手を差し伸べて助けてくれる存在ですらなく、だからこそ、今まで私はそんなものの存在を信じてこなかったのですが、最近、急に興味がわいてきました。
神様って、このエントリの冒頭で言ったような「自律的に動くシステム」をつくるための「フレームワーク」を提供してくれる存在なんじゃないのかなと、最近よく思うのです。
なので、我々人間にできることは、そのフレームワーク設計思想に反さないように、うまく利用していくことなのではないかなと思うわけです。