COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

自分が楽な場所

このあいだ、pha語録をまとめていた中で、私が一番いいなぁと思ったのは、合気道の話です。
とりわけ印象的なのは、「力で対抗してはいけない。自分が楽な場所に行けばいい。自分が楽な場所は絶対あるから」という言葉です。
この部分だけ取り出してみると、「仕事が長続きせずに転職を繰り返す若者」的なイメージを持たれるかもしれないのですが、全然そういうことを言っている訳ではないんですね。


その昔、映画監督の北野武さんが、自身の監督した映画について、「国内ではボロクソに叩かれるが、海外の映画祭などに出展すると非常に高い評価を受けて、いくつも賞を取ったりする。」と不思議がっていたことがありました。彼はそういうことがあって以来、日本という国をあまり相手にせずに、海外の人々から評価してもらえる機会を積極的に増やしていったそうです。


私の話をすると、私は中学生の頃、美術という科目が非常に苦手で、どんなに頑張ってもよい成績を取ることができませんでした。
授業でやっていることは、ただ単に、目の前の風景や人物などを模写するだけなのですが、何故か先生からはよい評価を得ることはできませんでした。
英語や数学など、他の教科は努力した分だけ、成績に反映されるのに、これはやっぱり自分に美術的なセンスがない為ではないかと思い込んで、諦めていました。
ところが高校に入り、そこでの美術の授業は、抽象画や立体図形など、頭の中にあるモヤモヤしたものを自由な形で表現することが求められる内容で、そんな中では、信じられないくらい高い評価を得ることができたのです。


これらの例は、評価を受ける場所が変わったことによって、受けとめられ方も変化し、それによって高い評価を得ることができた好例だと言えるでしょう。


「自分が楽な場所」って、言い方が抽象的でわかりにくいのですが、それは「自分のことを適切に評価してくれる場所」のことなんじゃないかなと思っています。
日常生活の中での生きづらさの本質はこういうところにあって、例えば、自分のやっている仕事がうまくいかないんだけれども、それって自分の努力が足りないせいなんじゃないかなと思い込んでしまい、闇雲に力技で対処しようとしてもダメだということなのです。
誤った場所でいくら努力したところで、そこから得られるのは誤った評価でしかないのです。


そういう意味では、phaさんはもう既に、「自分が楽な場所」を見つけているような気がしますね。今まさにphaさんのいる場所が、彼にとっての「楽な場所」なんじゃないかなという気がしています。ただそのことに、本人が気づくだけでよいのではないかなと思ったりしてしまいます。
それとは正反対で苦しんでいるのが、ハックルさんですね。彼は、「自分が評価を受ける場所」を完全に勘違いしているような気がします。はてなのユーザーに対して、いくら力で対抗しようとしても、それがかなうはずはないのです。これも同様に、本人がそのことに気づきさえすれば、楽になれるのになぁと思ってしまうのです。