COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

認知症の群集

この三ヶ月ほど、介護員(ホームヘルパー)の資格を取るために、専門学校に通いながら勉強していました。
大学時代に福祉関係の勉強を少しかじっていたこともあり、以前から介護職に興味があったのですが、今回たまたま本格的に勉強できる機会があった為、三ヶ月間の講座を受講してきたのです。


講座が始まった当初から中盤にかけては、まるで学生時代に戻ったようで、すごく楽しかったです。ところが、講座が終盤に入ってくると、老人ホームでの現場実習が始まり、そこでの体験が私にとって生涯忘れることのできないものとなっています。
実習を終えた当初は、うまく言葉にできずにもやもやしていたものが、ようやく形になりつつあるので、ここに少しだけ書き残しておこうと思います。



○現場実習

私が現場実習させていただいた老人ホームには、認知症の高齢者専門のフロアがあり、そこでの体験が特に強烈に印象に残っています。


このフロアに入居されている方たちは徘徊の可能性がある為に、フロア出入り口はまるで刑務所のように厳重に施錠されていました。そして、入居者はそこから外出することは一切許可されずに、ひたすら自室とリビングと食堂の間を移動しているだけで一日が終わってしまうのです。彼らは、おそらくこの場所で、このサイクルの生活を、亡くなるまで続けることになるのでしょう。
まずそのことに気づいた時点で私は軽く絶望してしまいました。


そのフロアでの実習中は、当然、認知症の方たちとコミニュケーションを取る機会が発生するのですが、私は正直これが一番苦しかったです。
少々内容がおかしくても、大まかなところで会話が成立する方の場合は苦労しないのです。けれども、5秒おきに話題が変遷していく方、突然胸をはだけて見せてくる女性、一日中泣いているだけの方など、多彩なバリエーションがあり、それぞれの方にどう対応すればよいのかわからなくなってしまい、途方に暮れてしまうことが多かったです。
その他にも、実際に現場で行われている介護の実体を目の当たりにし、仕方がないことだとはわかっていながらも、心の中にどんどん澱のようなものが溜まってくるのです。
その内、感覚が麻痺してきたのか、自分が何にショックを受けているのかもだんだんわからなくなってきたのですが、一週間ほど落ち着いて考えてみて、それは次のようなことなのではないかと思うにいたりました。



○見えなくする意図

そもそも、どうしてこのようなタイプの施設が一般に存在しているのでしょうか。
それはおそらく、日本という国家が、社会福祉の名目において、高齢者介護に関する制度などをあらかじめ策定した上で、後からそこに対して高齢者や介護職員などの人間を無理やり当てはめていっているからだと思われます。
私はそこに、こういった施設に認知症の高齢者を閉じ込めて、外部から見えなくしてしまおうとする意図をどうしても感じてしまうのです。
はたして「福祉」って、そういうことなんだろうか?というのが疑問としてずっと心の中にあります。


ずっと以前に、こんな話を聞いたことがあります。
「乞食」という言葉はテレビでは放送禁止用語になっています。その理由が、日本は世界有数の福祉国家であり、乞食というものは存在しないので、それを表現する言葉も存在できないということで、放送禁止とされているそうです。
これなんかは、社会福祉を実現するにあたり、ある問題に対して、「見えなくする」ことで対応しようとする典型的な例でしょう。
老人ホームについても、同じような意図が働いているような気がして私は仕方がないのです。



○精神の死

それでは、私はあの現場実習で、一体「何」に対してショックを受けていたのでしょうか。
それは、あの現場では「死」というものが、数多く、むきだしの形で存在していたからなのではないかと考えています。


もしも、「死」に、「肉体の死」と「精神の死」の区別があるとすれば、認知症はあきらかに後者に属するはずです。
例えば私は、自分の母親がもし重度の認知症にかかったとして、それを今まで通りの母親だと思うことができるかどうか自信がないのです。
息子や自分自身のことが認識できなくなってしまっている母親の状態を目の当たりにして、はたしてそれを「生きている」状態だと思える気がしないのです。


現代社会では、「肉体の死」は巧妙に隠されて見えなくなっています。その証拠に、日常生活において、死体を目にする機会は極端に少ないでしょう。だからこそ、稀にネットで変なリンクを踏んでしまい死体写真に飛ばされると大きなショックを受けるのです。
これと同様に、「精神の死」についても「肉体の死」と同様、目撃した人がショックを受けないようにうまく隠していこうとする力が働いているのです。
だからこそ、あの施設で多数の認知症の群集を目にした私は、非常に大きなショックを受けてしまったのだと考えています。



○福祉とは

私は当初、認知症の高齢者を施設から外出させずに閉じ込めているのは、外へ出ると車などが走っていて危険だからなのだと思っていました。
しかし、より深く考えてみると、その理由の裏側には、対象を見えなくすることで我々の目を問題から背けさせ、できるだけショックを和らげようとする意図が働いていることに気づきました。
一見、認知症の高齢者のことを考えているようなフリをして、実は我々にとって都合のいいように扱おうとする意図が、そこには垣間見えるのです。


それでは、認知症患者を積極的に外出させて、人目にさらせばよいのかという話になってしまうのですが、私は、むしろそうすればよいと思うのです。
私と同じ講座を受講していた方に教えていただいたのですが、諸外国の中には、認知症患者をできるだけ閉じ込めないようにしている国もあるそうです。
どういうことかというと、まず老人ホームの周辺の環境から整備して、車が入ってこれないようにして安全を確保した上で、周辺を歩けるようにしているそうです。そして、地域の人々からも、さりげなくその姿が見えるようになっているそうです。
国が、老人ホームという特定の場所の整備に集中するだけではなく、その周囲の環境づくりまで視野にいれてまちづくりを行なっているのです。
素人の私が言うのもなんですが、このようなやり方こそが「福祉」の概念を適切に具現化しているのではないかと思うのです。