COBOL技術者の憂鬱

COBOLプログラマは不在にしています

誰がSNSを使っているのか?

いまさらで恐縮なのですが、twitterとかって、いいですよね。
あれは、普段は顔を合わせる機会のほとんどない友人や知人であっても、そこに「ゆるい繋がり」を持つことができて、意識しなくても自然にその関係を維持していくことができるところが非常によいと私は思っています。
もう何年も前に、短期間だけ一緒にお仕事させてもらったことのある人なんかでも、いまだにSNS上でお互いの発言に対して軽く突っ込みあったりすることがたまに起こり、そういうなにげないやり取りを通じて、今でもお元気にされているんだなということが自然にわかるようになっているのです。




SNSのなかった時代は、例えば「年賀状」がそういう役目を果たしていたんでしょうが、やっぱり紙ベースの情報やり取りは、年に一度のこととはいえ、うざったいものです。
今年の正月も、普段顔を合わせることのない知人たちに年賀状を送ろうとしたのですが、ふと思いついて、年賀状に私のtwitterfacebookのアドレスを書いてみることにしました。もしこれで、私のアカウントに対して彼らからフォローなり友達申請なりがくるようであれば、来年からその人には年賀状を出す必要がなくなるので、そういう効果を狙ってみたわけです。
ところが、年が明けてからいくら時間が経っても、結局誰からも反応がありませんでした。もう本当にびっくりするぐらい何もない。
ちなみにここで対象とさせていただいた人たちは、主に職業はIT系、といっても汎用機系のエンジニアで、年齢層は比較的高めで、しかも男性が多いです。
まぁ、クラスタが偏っているからレスポンスが悪くなるのも仕方ないのかなと思い、あきらめて来年からも彼らに年賀状を出し続けることにしました。


そして、この間も、もう一つ似たようなことをやってみたのです。
ついこの間まで私は、とある専門学校に毎日通って勉強していたのですが、そこで仲良くなった同級生たちと、講座修了後もなんらかの形でゆるいつながりを持っておきたいと考えるようになりました。
そこで私は、個人用の名刺を作成し、そこにtwitterfacebookのアドレスを書いて、修了前までに同級生全員に渡しました。ところが、これも同様に、それ以降の反応が反応が全くないのです。
ここでの同級生の年齢・性別・職業については、かなり幅広く、クラスタが偏っているということはまず考えられません。
名刺を渡す際に、何人かの方に少し確認してみたのですが、そういったSNSの存在は知っているけど、実際に使ったことはないという方ばかりでした。これはおそらく、同級生全員に当てはまっていたのではないかと今になって思えてくるのです。


今年に入ってから、50人近くの人に対してSNSのアドレスを教えてきた訳ですが、ずっとこんな調子だったので、一体誰がSNSを利用しているのか、そもそものところがわからなくなってきました。




で、これは仮説なのですが、ひょっとすると彼らは、私のtwitterfacebookのアドレスを、ブラウザの「ブックマーク」に登録して、週に一度くらいの頻度で見に訪れているのではないかと思うのです。
つまり、昔ながらの「個人ホームページ」の感覚なんですね。知り合いがホームページビルダーなんかで作成した日記サイトに定期的に訪問するような感じです。
SNSとはそもそもそういう使い方をするものではないのですが、昔の「ホームページ」を眺めていた時代からいまだに意識が抜けだせなくなってしまっているのではないかと思うのです。


また、一見するとSNSを使いこなしているようにみえる人たちも、実はそうではないなと考えさせられることがたまにあります。
よくあるのが、twitterで、自分の知り合いしか自分のツイートを見ていないような錯覚に陥ってしまい、うっかり法に触れるようなことをツイートしてしまい、2chで祭りあげられるという流れですね。twitterがバカ発見器と言われる所以となっている現象です。
私が思うに、あれは、いわゆる昔ながらの「メール」のような感覚でtwitterを使っているのではないでしょうか。自分の知り合いだけに限定して、内輪の話をメールしているような感じですね。
つまり、ここでも「メール」からユーザーの意識がいまだに抜けだせていないのではないかと思うのです。




で、結局何が言いたいのかというと、彼らにとってのインターネットとは、いまだに「ホームページ」であり「メール」なのではないかということです。
そういった従来からあるサービスの概念を超えて、ユーザーに新たな領域に入ってきてもらうには、どうすればよいのかというところを、Webサービス提供者はもっと考えなければいけないのではないかと思うのです。
Webの世界には、「docomoがインフラ設計で残念なことになっているのは、電話屋の発想から脱却できていないからだ」とか、「googleの最近のサービスがぱっとしないのは、検索屋の技術から脱却できていないからだ」とか、従来から色々と問題視されているトピックがあるのですが、結局そういうものって、サービス提供者側の問題にすぎないんだなと、私なんかは素人目線ながらよく思ってしまうのです。
サービス提供者側だけではなく、実はユーザー側にも、そういった従来のサービスに固執し続けてしまい、そこを超えていくことができないという問題があるのではないでしょうか。